弁護士山本了宣の研究日誌

活動の記録と、日々考えたことなどを書きます。技術的な話が多いかもしれません。研修などでは言いたいことをだいぶ削っていますので、そのぶんの話なども。

証拠開示はなぜ必要かNo.3 「証拠の独裁者」

主張に沿わない証拠をはじくというズルを認めない

 刑事裁判は何のために行われるのかという問いがあります。その答えの一つは、「検察官の訴追を批判・検証するための手続だ」というものです。
 訴追は公訴事実と証拠のセットで成り立っています。公訴事実が主張で、証拠が根拠です。

 主張というものがどう検証されるべきかという観点でこの問題を考えてみましょう。
 今ここで私が、「このサイコロは6しか出ない」という主張を始めるとします。その証拠として私は、6の目を出したサイコロの写真を100枚並べます。「これはサイコロを振ったあとの写真だが、見ての通りこのサイコロは6ばかり出している」という訳です。
 この主張はぱっと見ただけでおそらく間違っていそうですが、どういうズルによってこの主張が成り立っているでしょうか。簡単な手口は、1から5が出た写真は省略するというものです。つまり本当は600回サイコロを振って、1~5を500回出しているのですが、それはすっ飛ばして、6が出た写真だけ100枚提出するというやり方です。

 これをチェックするためのストレートな方法は、「あなたの撮ったサイコロの写真を全部出してください」というものです。それによって、「主張に沿わないデータをはじく」というズルは許されなくなります。

 公訴事実と証拠の関係性にも同じことが言えます。「主張に沿わない証拠をはじく」という「ズル」は可能なのです。それが無いかということが検証されなくてはなりません。
 サイコロの場合は再現性がある世界なので、別の実験で検証することが可能です。しかし事実の世界は一回きり、証拠も固有のものですから、再現による検証ということは成り立ちません。検察官の手持ちの証拠を検証するという作業は不可欠なものとなります。

 証拠開示の根拠の一つはここにあると考えられます。「主張に沿わない証拠をはじく」というズルを禁じることによって、初めて公訴事実という検察官の主張がきちんと検証できることになります。

 以前の記事では、真実の発見という点を中心に証拠開示のことを説明しました。ここで書いた話はそれと似ている部分がありますが、少し違いがあります。今日書いた話は、「検察官の主張の検証が刑事裁判の目的だ」「主張に沿わない証拠をはじくというズルは認めない」という話ですから、広く調査して素材を求め真実を探すというよりは、「検察官の主張の検証のために、まさにその手持ち証拠が検証されるべし」という考え方にストレートにつながります。

松川事件国賠一審判決

 ところで、著名なえん罪事件である松川事件では国賠訴訟も行われています。松川事件では諏訪メモというアリバイ証拠の存在が上告審段階で判明し、最終的に無罪の判決に至りましたが、国賠訴訟では検察官が諏訪メモを法廷に出さなかった行為の違法が争点の一つになりました。その一審判決はこんな風に判示しています(東京地判S44.4.23)。

 もともと、公訴事実(すなわち検察官が真実と考える事実)が、はたして真実であるかどうかということこそが刑事裁判の審理と判断の対象なのである。つまり、検察官の証拠に対する判断の当否そのものがそこで問われているのである。それなのに、検察官が「真実」(すなわち検察官の考える真実、つまり、公訴事実である)の発見に役立つと判断する証拠だけを開示すればよく、そのほかの証拠(つまり検察官が真実でない、または、関係がないと判断した証拠)は開示も提出もする義務がない、この判断はいつさい検察官にまかされていて、だれの批判もゆるさない(開示も提出もされなければだれも批判できない)、と言うのは、まことに矛盾もはなはだしいことであり刑事裁判そのものを否定することにはほかならない。

 検察官の判断を確かめるためにこそ裁判を行うのに、検察官が自分の判断で証拠を出さないということを許せば、裁判をする意味自体が失われてしまうというのです。更に判決はこう言います。

 要するに、「検察官が良心的に考えて真実発見に役立つと判断する証拠だけを開示、提出すればよい、そうでない証拠は開示も提出もする必要はない」という検察官と被告の見解は、その検察官の判断そのものに対する公開の法廷での批判を拒むことであり、結局、「検察官の証拠に対する判断は、つねに正しいのだから信頼せよ、これについては、だれも口を出す必要はないし、また検察官が『真実』の発見に役立たないと判断した証拠は、裁判所も弁護人もこれを見る必要もなければ、その存在さえも知る必要もない」ということに帰着する(現に、次項以下でのべる諏訪メモ、来訪者芳名簿などの重要証拠について、第一、二審裁判所は、その存在さえも知らされていなかつた)。つまり、それは、「知らしむべからず依らしむべし」ということなのであつて、しかも、その「知らしめない」相手には、事実認定の最終責任を負う裁判所までがはいつているのである。それは、言いかえれば、検察官が証拠の独裁者になることであり、公開の法廷でいつさいの証拠についてのつくすべき議論をつくしたうえで裁判所が事実を認定するという、刑事裁判の根本を否定することである。このような被告、検察官の見解がまちがつていることは明白である。

「知らしむべからず依らしむべし」

 論語の言葉です。
「たみは之に由らしむべし之を知らしむべからず」

 日本国語大辞典の語釈ではこうです。

人民というものは、指導して従わせることはできるが、その道理を説いて理解させることはむずかしい。また、人民というものは命令によって従わせればよいので、原理・方針を説明する必要はないの意でも用いる。

 私はこの言葉には、裁判所の怒りがこめられているように感じました。
 刑事裁判とは検察の判断を批判・検証するためにこそあるというのに、その検察自身が批判・検証の素材たる証拠を我が物としてしまっている。検察は、裁判所も弁護人も、検察が選んだ証拠だけを見ればいいのだという。
 その態度は、裁判所も弁護人も「道理を説いても理解しない民」のごときものなのだから、検察と同じ証拠を目にする必要などない、ただ検察の言うことを受け入れていればよいのだというに等しく、それはまさに「たみは知らしむべからず依らしむべし」と同じことである。検察の思い違いは甚だしいものだ。そういうことだと思います。
 

「証拠の独裁者」

 そしてもう一つのキーワードが「証拠の独裁者」です。
 検察が証拠を掌握し、それを出すも出さないも全て独断で決めることができてしまうとすれば、それは刑事裁判を検察が支配することに他ならないということでしょう。
 別の言い方をすれば、法制度も訴訟指揮も、検察が「証拠の独裁者」となることを許してはならないということです。証拠開示を認めない刑事裁判制度や訴訟指揮は、検察を証拠の独裁者として振る舞わせるものであり、自らその任務を放棄するものだということになりはしないでしょうか。私は松川事件の国賠訴訟で示された裁判所の怒りは、今も発揮されていいもののように思っています。

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